昭和44年 10月11日 朝の御理解
御理解第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根が切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ」
(水が ? )、いろいろ頂きますけれどこのようないわゆるおかげ、病気災難の根が切れて、ちょうど井戸替えをさしてもろうて、こんこんと綺麗な水が湧いて出てくるような、おかげ。そう言うおかげを頂くようにと、そう言うおかげを頂くように、一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよと仰いますけれど、大抵元気な心で信心さしてもらえる、大抵信心も辛抱し抜かせて頂いて、言わば何十年信心しておりますと言う人は、(今日?)たくさんありましょう、ね。
たくさんありましょうけれども、確かに井戸は清水になるまで、と思われるほどしの、おかげを受けておる人はほんとに少ない、ね。これは、ただ出来ない事を教えて、まあ、良い事言いの何とかと言いますけれど、ね、いわばその、感敏に感情を持って、信者にこういう風に言うておられる。「一生懸命信心し抜かして、まめに元気な心で信心しおりゃあ、それこそ、井戸は清水になるまでのおかげを受けられるぞ」と、教えておられるけれども、何十年経っておるけれども、井戸は清水になるほどしのおかげを受けておらず、汲めども汲めども尽きぬほどの、おかげを受けておるとも思えない。
やはり、病気災難は根が切れていない、様々な難儀はちゃんとある、ね。そう言うような、あたくしはそのおかげを頂くと言う事には、何が欠けておるから、どこがいけないから、そう言う事になってこないかと言う事を一つ、極めてみなければいけん。この御教えの中から、ね、そこをどう有り難く頂かなければならないか。もちろん、七部目、八部目で止めればもうそれはいけません。
けれども、止めてはいないけれどもおかげが受けられないと言う所は、どこに言うなら食い違いがでけておるのであろうかと、ね。あたくしのいとこに、(いうなら?)信心をする人がおります。もうそれこそ、あたくしどもが叶う事が無いほどしの、(素敵な?)信心をいたします。この人は、言う事は「あたし一代はいくら難儀をしてもいい。」ちゅうんです。「おかげは望まない。わたし一代は、ね、だから、子供の代になり、孫の代になっておかげを頂きゃあいいんだ」と、言わば達観しておるとでも申しましょうかね、
それはほんとに珍しいばかりの心境のいたす所です。
もう(あの信者は?)おりません、もう見た事が無いほどし、まあ言わば良い信心、言うなら元気な心で一心にまめで繁盛するよう信心しておるわけなんです。そこでその、元気な心で信心せよと仰るその、信心を第一検討してみなければいけない。元気な心でその、やはり参っておる、拝んでおる、けれどもそのー、果たして、もう(まんじょうに?)もう言わば、子供の時代になってます。
けれどもまあ1個その、子供の時代になったから段々、井戸は清水になってこんこんと尽きぬおかげを受けておるとも思われない。(そうすると?)この御教えは、嘘のような感じになってくる。八分、九分替えて、退屈して止めれば、掃除はできん、やはり、水は濁っておるもの。だから、ここで思われる事はですね、あたくしどもも信心させて頂いて、えー、退屈で止めんで済むようなおかげをまず、そう言う信心を願わなきゃいけんと言う事になる、ね。
退屈せんで済むような信心をまず願わにゃいかん。どういう信心なら退屈せんで済むだろうか、ね。段々楽しゅうなってくる、段々面白なってくる、面白いっちゅうと何か変になるかもしれませんけれどもね、ほんとに(何の稽古事でもですよ?)ズボンも手に入ってこんとおもしろないでしょう、ね。いわゆる楽しゅうなって来る、だからその、ますます楽しゅうなってくると言うような信心を、お互いが目指さなければいけない、ただ、一生かかって、一生懸命拝んで、一生懸命参って、と言うだけの信心じゃ例えそれが何十年、例えば続いておってもですね、そういうおかげになってこない。
信心がいよいよ楽しゅうなってくる、嬉しゅうなってくる、段々有り難うなってくると言う、あたくしはそう言う信心を目指してさえおればです、八、九分目で止めるような事はまず絶対無かろうと。楽しいですもんね、面白いんです、ね、道楽という事を申しますが、ね、道を楽する事が出来る、ね、言うなら、信心道楽。何が道楽って素晴らしいって言うたって、あたし信心道楽ほど素晴らしい事無いと。
「過ぎたるを及ばざるが如し」とか、ね、何でも程度がある、確かにそうです。けれども信心ばかりはそうじゃない、これはもう信心だけです。いくら、道楽をいたしましてもね、いくら人からぼうけとるじゃなかじゃろかと言われるようであってもね、ただしですよ、ね、あのなんちゅうんですか、下手の横好きちゅうんですか?下手の横好きちゅうのは、全然上達しないでやっぱ好きだと言う人、ただ前へ(?)拝んどりゃあ、何とはなしにもうそれだけで、嬉しいとか楽しいと言う人がある。
信心は止められん。ですから、これではやっぱいけない、上達していかにゃいけん。上達していく事が、楽しいので無からなければいかん、ね、自分もまだ知らなかった世界がこう開けてくる事が、楽しゅうならなだめ、ね、そう言う事で、あたくしここの所をですね、昨夜の月例祭の後の夕食の後にも、御利益御利益ばっかりねごたんじゃつまらん、ね。信心がわからなと、例えば声を大にして言われておりますように、信徒会なんかに参りますと、そればっかり。
おかげ話しよると怒られる。もう信徒会でも筑水信徒会なんかは、全国でもう屈指の信徒会、ね。出世をして、例えばお話(ようさん?)頂いておられると、ただこげなまでのおかげを頂きました、こげな繁盛のおかげを頂きましたっち、おかげ話ばかりしよると怒られる。「そういうようなおかげ話ばしてから」ちゅってから、ね、確かにやっぱそうです。けれどもやっぱおかげも受けなければね、いけません、おかげもやっぱ大事です、ね。
ですからその、うーん、信心をわからにゃ、信心をわからにゃといくら言われたってですよ、信心を分かろうと努めない。ただ、おかげを頂こうという事だけに、終始するから、おかげ信心ではいけんと言われるのだけれども、そんな信心を分かる、信心の稽古をしておると言うのは何かこうやはり、お互いの心の中にぴんと来ないのである、大変難しく感じるのである。
もう少しそこの所を具体的に、まあ、焦点が無からなければいけん、ね。昨日の御理解にそこの所があってね、それは信心を分かる、ここに信心の稽古に来ておると言うのではなくてです、ほんとにです、ね、どのような場合にあっても、喜んでおれれる稽古。どのような場合にあっても、ね、「信心する者はこれから先どのような事が起こってきても、驚いちゃあならんぞ」とこう言われる。
どのような場合に直面いたしましても、驚かんで済む、安心しておれれる、ね、言うならその安心しておれれる心を目指して、信心さして頂いたら、ちょっと具体的な、ね、信心信心、信心の中身ですけども、中身の所に触れる、自分の心の中に喜びが大きく広がっていく。どのような中にあっても安心しておれれる、ね、それが有り難い、それが楽しい、それが育っていきよると言う事が、朝参りをするのに(眠いとか?)、いわゆる雨が降るから、風が吹くからと言うて、偉いも大義とも思わん、その事こそが、我が命であって、その事こそが私の、願いであって、ね、と言うような事になってくる、ね。
だから、安心とはどのようなもの、喜びとはどのようなものと言う事に、やはり一度は触れなければ、それを育てていく事も出来ない、ね。信心させて頂いて、ね、信心の喜びが段々育っていく事のために、毎日教えを頂く。どのような場合でも不安、焦燥、心配せんで済む、そう言う心がです、何かの時に直面した時にです、ね、もし信心の無かった時代の私であったらどうであろうか、それこそ、大変なうろたえを見せるであろうけれども、そこの所を驚かんで済む、安心しておれれる。
これは神様のご都合に違いはないと信じられる、自分というものをです、あたくしはわからして頂いた時に、それが育っていきよる、その育っていく、いよいよ育っていく事のために精進する。そしたら例えばこれはもう八分目、九分目(?)これは止められん事になってくる、ね。もう歯食いしばって辛抱する事いらんのです、もう嬉しゅう楽しゅう辛抱が出来る、だからここん所だけを一つ改革しなければいけんですね。
ただ、困った時にお願いに参ると、大した困った事なかけんもうお参りせんでもと、ね、人間の幸せと言うのは、ね、どう言う所にあるか。どのような場合でも安心しておれれる、日々が、ね、日々が有り難い、この一語に尽きる。そう言うあたくしは生活こそ、人間の幸せであると、と分からせて頂いて、そこん所を目指す。だから、ね、「井戸替えをするのに八、九分替えて退屈して止めれば、掃除は出来ぬ」、と言うなら、そう言う止めんで済むような信心、いろんな事に直面しても止めんで済むような信心、ね。
ただ、おかげを受ける事だけは間違い無い、それこそ、体験発表をどんどんさしてもらえるほどしにおかげは頂きよる。だから、有り難いとか楽しいとかと言うのであったら、そのおかげは例えば言うなら一度止まったとするか、自分が右と願っても左、左と願っても右となるとするか、そうすると、いわゆるそう言う信心では退屈してくる。こげん参ったっちゃおかげ頂かんごたるなら、返って反対な事になってくるならと言う事になってくる、ね。
ですからここん所をどうでも一つ、やはりおかげと言うのがけして頂かなければならないけれども、目当てであってはならない。信心さして頂く喜びとか、ね、信心さして頂いて、頂けてくる所の、自分でも不思議なくらいにどのような場合にでも安心しておれれるような、心を。そう言う心が育っていく事を、言わば焦点と言うか目指す、目指しに目的にしなければいけない。
どうでしょうか、あなた方がこうしてお参りされておられるのがほんとに自分の心の中に広がっていく喜びが楽しいから参っております、このような時でも、ね、驚かんで済む、おかげを受けられておる。その安心が段々、本当のものになっいく事が楽しゅう、からこうして信心をしておりますと言えるような事になってこないといけん、そういう事になっておるだろうか。
言わば、おかげがね、自分の願っておる事が成就する事の為に一生懸命になる、と言うような信心ではやはり、八分、九分替えて、ね、もういよいよどんな時にもやっぱいよいよきつい時には、やはりへこたれると言うか、あいてくるという事になって来るじゃないでしょうか。途中で止めれば、病気災難の根の切れるまで、井戸は清水になるまで、ね、そういう清水になるまでの辛抱が出来ない。
一番最後の所にね、まめで繁盛するよう、元気な心で信心せよ、ここにまめで繁盛するよう願えと言わんばかりに書いてある、ね、言うておられる。まめで繁盛すように一心に、ね、ただの商売を商売するものがどうも繁盛しますようにと、元気な心で一生懸命信心さえすればいいように感じるけど、そこん所はそうじゃない、ね。
ところがそういう人が多いんじゃなかろうか、辛抱しとるけれども本当は繁盛すると言う事、ね、元気な心で、ね、一心に繁盛するように願えと仰ってない。繁盛するよう元気な心で信心せよと仰る、ね。だから、まあその、いかにも信心しておるようであってもです、信心しとるようであっても、例えば、飽きが来るような七分、八分目、九分目で止めなければならないような信心ではいけない、ね。
そんなら、ね、絶対に止められない、どんな事があっても止められない、止められるどころかいよいよ、その道楽が募っていく、道楽というか、ね、道を楽していくと言うかね、その道を極めていく楽しさと言うものが、いよいよ募っていくという信心を頂いておけば、大丈夫だという事になるでしょう。
そういう信心なんです、そういう信心を元気な心で信心せよとこう仰る。どのような場合でもへこたれない、どのような場合でもますます有り難うなる、ね、ますます楽しゅうなる、面白うなる。大きな問題にぶつかればぶつかるほどです、心がいわゆる、むしろ返って元気な心が出る、いわゆるファイトが湧いてくる。そういう信心をせよ、そういう信心をしておるならです、これはもう絶対あたしは、この教祖様のこの御理解がです、本当の事になってくると思うのです。
何十年信心しておるけれども、ね、尽きぬほどのおかげが、うーん、受けられない、依然として皆が病気災難が続いておる、難儀なことは続いておると。ね、そういう信心を何十年、例えばさしてきた、あたくしの言った事じゃないけれど、めぐりのお取り払い、めぐりのお取り払いと言うて、ね、もうだから私一代でめぐりのお取り払いに至るかもしれんが、ほんとは人間の、自分の家のお取り払いを頂いて、自分一代でめぐりの根絶を図っておる。
そこに、やはり願いは非常に大きいです、ね、だから、だから、自分一生は苦労してもええと言いよるけれども、皆さん、まあ時々の人はそれで良いかもしれん、( ? そのなかやっぱおらんげなと?)実際におるんですから、けれどもそれじゃつまらんでしょ、ね。やはり、これがお徳であろうか、これがおかげ、これがほんとのおかげであろう、こんこんと尽きぬおかげの、それをいっちょ見極めてから死ななきゃ死にきれない、あたくしとかはそげん思うですね。
御霊さんになってから、はあ、子供達がおかげ頂きよる孫達がおかげ頂きよると、言う事だけじゃ馬鹿らしか気がする。まあ、現実派ですからあたくしは、ね、やはりあたくしの時代に、ね、おかげを頂いてこんこんと尽きぬほどのおかげを頂かせて頂けれる、そういう信心を頂きたい。
それで、いうならまあこの28節のそのまあ一番大事な所はですね、七分八分九分で、えー、井戸替えを途中で止めるような信心では、いつまで経っても水が濁っておると言うですから、(これはやっぱ非常に大事な所?)、だから八分九分で止めんですむ為には、どうしても信心が面白ならにゃいかん、ね。面白なるためにはです、やはり自分の心の中に育っていくもの、このような場合でも安心しておれる、このような事の中にあっても喜んでおれれる心がです、育っていく事をいわゆる目指して信心する。
そして、なるほど先生が言うようにです、ね、そういう道が付けられる事実をね、やはり頂かないかん。取り越し苦労ばっかり、ね、不平不足ばっかり腹立たしいばっかり、いらいらもやもやばっかり、ね。そういうあたくし達がそのいらいらもやもやも無くなってくる、取り越し苦労もせんで済む、それで明るうなってきた、ね、不安焦燥なおさら無い、ね、と言うようにですね、あたくしどもがそういう変わり方が出来るための稽古、ならばどういう稽古でも辞せないだけの私信心がなからなければです、そこん所に稽古の焦点を置かなければいけない。
そこん所が、いわゆる一番最後の「一心にまめで繁盛するよう」と言う所だけに、焦点を置いて信心をしておる、それではなくてです、ね。「一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよ」仰るのは、ね、ただ今申しました信心が楽しゅうなる、面白うなると言ったような信心をまめで一心に思うていかなければいけない。そういう信心に、繁盛するおかげ、繁盛のおかげが伴う。
子の問題、孫の代ではない、自分の代にです、自分の時代にです、それを確認する、ね。信心のおかげと言うのは、ね、これだというものを自分で頂いて、しかもその信心を迷わず失わず、子供の為に残しとかなければならないのであり、または、えー、孫のためにそれを教え伝えていかなければならんと言う事になります。
だから、このまあ28節を、ま、そのようにまあ今日一日一日頂いて、そしてまああたくしの信心のみで頂きたい。あたくしの方にも、やはり何十年という長い間の信心をさせて頂いて、ね、いわゆるあたくしは生まれてから始められたったりした所で、55年間という長い間の信心であったけれどもです、ね、その(いうなら?)あたくしどもの、ね、辛抱したらいつかよか事なろう、と言ったような何とその、安易な信心であったと。
おかげを受けるから止められなかった信心であったと、ね、止めてはいない止めてはいないけれども、例えばあのような信心を続けておったんでは、現在のようなおかげは受けておらん。言うなれば、このあたくしが、ね、いよいよ信心が楽しゅうなってきた、いよいよ信心が面白うなってきた。難儀が続けば続くほど、ね、そういう事が、ね、神様がもうこんなにして鍛えて下さるんだと。
末の道で言うならば、末は横綱か大関にならして下さると言うような神様の願いがあればこそ、このような修行もさして下さるんだと言ったようなです、もう返ってもりもりと、いわゆる元気な心が湧いておったと言う事。そりゃ皆さんいつも聞いて下さる通りです、ね、難儀になっていけばなっていくほど、今日はその御理解じゃないけれども、ね、人の心の心の奥ぞしらるるではなくて、神の心の奥ぞしらるると言う事になってきた。
神様の心が分かってくればこれほど有り難うなってくる、いわゆる信心が面白うなってくる。もう道楽と言うたらこんな道楽はなか、となる。両親が言いましたって、「あんたも馬鹿じゃなか、商売すりゃ一人前に出来る。止めるんだったら信心を止めるなとは言わん。だから、商売をしながら信心をしちゃどうの」とかとあたしに何回も言うてくれた。
けどもその時にはもう、言わばもう世の道楽の頂点におった。それこそ、頭に火が点いたちょう(?)になっておった信心が、ね、だからそういう両親の言う事が、もう腹の中でもうおかしゅうしておかしゅうしてほんと、先の事は分からん、まあ一辛抱しなさいと言うて、毎日参りましたらね、ね、信心がいよいよ面白うなってきた。
言わばめぐりのお取り払いがですね、言わば井戸は清水になるまでがどんどんどんな濁ったものが上がってきても、上がってきてもです、楽しゅうなってきたと言う事、ね。そうしてから言うなら、そういう信心をさして頂きながら、どうもこげなおかげを頂かして下さいあげなおかげを頂かしてくださいなんかって言う事はもう、いわゆる願わんですむ事なんです、ね。
一心に繁盛するように願わんでも済むようになって来た。ただ、元気な心でただ一生懸命辛抱さして頂く事が有り難いと言う事になって来たら、ね、あたくしの心の上に言わば喜び、安心、「本当にこういう難儀の中にほんとに嬉しいのですか、有り難いのですか?」と人から言われるくらいに有り難うなってくる、ね。
いよいよもう、井戸は清水になるための準備が出来れておった、ね。そして言うならば、汲めども汲めども尽きぬほどしの、おかげをね、あたくし一家だけではなくて、こんなにたくさんな御信者さんの上にも、汲み上げてあげてあげれるほどしのおかげになってきた。してみると、教祖の神様は嘘を仰ってはいない事をあたくしが実証しておられる、ね。
だからその、眼目が違う、第一、ね、例えば二十年以前の信心はです、ね、眼目というのはただ商売が繁盛すると言う事だけ、商売が繁盛して大きな御用を、言わば出来れるようにと言うような事がまあ、言うならよか願いじゃった。あたしとて儲けようと思いません。儲けてもどんどんお供えもしますから、どんどん儲けさして下さいと言ったような信心だった、ね。
そういう信心から、ね、自分の心の中に育って行く物、安心、同時に喜び、それが育っていくのが自分ながら、自分でそれが見えるほどしになっていた。いわゆる信心が面白くなる、ね、それで、例えば現在のおかげがあるという事になってくるとです、なるほどこの28節が嘘ではない、何十年信心を続けておるけれども、やはり、えー、難儀災難と言うかね、様々な問題は難儀と感ずると言う事ですね、言うならあたくしの上にだって難儀が無いわけでは無いです。
様々な難儀はありますけれども、それをあたくしどもは一っつも難儀とは感じてない、いわゆるおかげと感じておる、ね。そう言う信心が開けてくる所からです、井戸が清水になったのですから清らかな水がどんどん湧いてくるように、現在おかげを受けておるという事実をね、あたくしは皆さんに見てもらい、あたくしはおかげを受けておる、そういうおかげを見てもろうて、ね。なるほどこりゃあ信心の目指しと言うものをです、やはり間違いの無い所におかなければ何十年信心しても同じだと、一つ分かってもらう、言わば悟ってもらう、ね。
嫌な事難儀な事が起こってくれば起こってくるほど、返ってファイトが湧いてくる、元気な心が湧いてくる、ね。そういう信心をあたくしは元気な心でと仰っておるんじゃなかろうか。信心せよと仰るのはただ、何十年前より拝めと言うのではなくて、信心せよとあたくしは申しました、ね、段々楽しゅうなっていくような、有り難うなっていくような、どのような場合でも安心していけれるような、そういう信心をここでは信心せよと仰っておられるのでしょう、ね。
皆さん今日は御本部参拝、バスで( ? )でございましたから大変まあお疲れになった事であろうと思う。ね、あたくしの御祈念っちまだ4時すぎだったんでしょうね、皆様お疲れ様ね、きっと。そして、4時まで、5時までここで御祈念をさして、それからまた若先生が御祈念をさしてもろうた。そしてまた、こんなに長なるとはお話しを頂かなければならん。元気な心が無からなければ出きる事じゃない、ね、だからそれも、元気な心です、ね。
けれども今日あたくしが言う元気な心と言うのはね、歯を食いしばっての、眠いけれどもきついけれども、歯を食いしばっての、言わば元気な心ではなくてです、有り難いものが育っていく事が楽しいから自ずと湧いてくる元気な心、ね。難儀に直面した時に「ようし」と言うようなそのファイトの湧くような信心。それをあたくし元気な心だと今日聞いて頂いたわけですけどね。どうぞ。
明渡徳子
2005年6月7日